もう少し『RE/PLAY』について。

前のエントリーはお腹が空いていて失速したんだけど、ラーメン食べて元気が出たのでもう少し『RE/PLAY』について。

京都で作った時は、演劇の文脈でダンサーと作るということを意識的にやっていたんだけども、
今回は、演劇の文脈から抜け出すということを考えながら作っていた。

結果的には京都と同じことをやっているんだけども、京都でも演劇の文脈から抜け出してもいたんだけども、
ちゃんと意識して、やった、ということ。

どういう事かと言うと、オブラディオブラダで言えば、俳優と作る時は8回しか繰り返さない。
反復を踊りにするというくだりも無い。ダンサーじゃないからね。
そのことで、俳優版の方が、繰り返すことでだんだん同じ動きになり、反復しながら変化しつづけること、進み続ける時間が、まるでこの世界のように見えたり、世界のどこかに見えたり、人間に見えていくという側面は大きいと思う。
これが演劇の文脈と言われるものだろう。
そこから抜け出すということは、繰り返されていたことであったり、反復や変化や時間もあるにはあるけど、そんなことよりも、今、目の前にある身体の素晴らしさを浴びる、ということかなと。そして、ダンスとはそういうものであろうと。
出演者にも、7回目までは演劇、8回目以降はダンス、という話はしていて、他のシーンでも演劇の文脈で時間を進めても、最終的にはダンスとして見るという構造を結構意識していた。



なぜ途中に打ち上げの会話が入っているのかと、終演後お客さんにも聞かれたけども、人間化ということも、演劇とダンスの間にあると思ってます。
演劇は人間と世界を描き、ダンスは何かを描くとかではなくそこに身体があるということじゃないかなと。
演劇は舞台上の人間を、あれは私だと思えるかということがかなり大切なことで、ダンスはそうじゃないだろう。
そんな言語化できることではないだろう。

台詞=演劇、物語、ということではなく、あの会話は、その後の2曲の為にあると言った方が近い。
会話自体はあのメンバーが公演後には当たり前に別れ、この先また別々の場所で踊る、ただそれだけの話です。
会話上はそれぞれ別れて帰路についているけど舞台上には変わらず全員の身体がある、という、演劇的な時間と場の使い方で個の踊りを膳立てたかったということかな。
一度彼らを人間にしてから、ダンスにしたかったとも言えるかな。もしかしたら台詞は言っていたけど身体はずっと人間じゃなかったのかもしれない。人間だったのは聞こえてきた台詞と、歌詞だけかもな。
ただ一度はしっかり人間(という存在)を出しておきたかった。

その後の2曲は歌詞も物語性が高いんだけど、演劇文脈から抜けるというよりも、演劇文脈を利用するということかも。
それぞれの見方によるけども、身体が物語に奉仕するのか、物語が身体に奉仕するのか、前者は正に演劇の文脈で、後者はまだあまりやられていないことかもしれない。やりたいことでもある。

うん、パラレルワールドとラストダンスは、物語がダンスに奉仕するということだったのかな。だったらいいな。



今回の稽古で明らかになったのは、ダンスの人、ダンサーも観客も、基本的に歌詞は聞かないそうだ。
これは演劇を作ってる側からすると結構衝撃だった。

そもそも歌詞のある曲を使うのにも抵抗があるという、まぁよくよく考えたら演劇もそうだけども。
歌詞は、というか言葉は色々な物を規定してしまうからね。演劇は言葉で規定してくものだけど、ダンスは真逆だ。
京都の時は、当然みんな歌詞聞いてくれてるだろうと思ってたけど、今回は歌詞なんて聞いてなくても面白くしようというチャンネルがあったのは良かった。
岡崎Pの「京都超面白かった、歌詞なんて全く聞いてなかったけど」というのはなかなか衝撃だったなぁ。

最後のGLITTERは、俺もほとんど歌詞は聞かずに楽しんだ。だから曲は別にGLITTERじゃなくても良かったとも思う。
でも歌詞があるならばGLITTERが良いだろうということで、歌詞と結びつけて見る人もいるだろうし。

でも2014年にもなると、歌詞も大分聞こえ方が変わりますね。それもあったかもしれない。
TSUNAMIなんてもう普通にラブソング。TSUNAMIも変えずに使ったのは、このゴッテゴテの文脈背負った曲と、響かなさが、歌詞とか物語を相対化できたらいいなというのもありました。いやー、もう酷い響かなさだったなぁ。まいっちゃうよ、ホント。


まぁ作家の作品こうしたつもり、は、結局作品とは関係ないんですが、備忘録的に書いてみました。

あと今回はオーディションもとても面白かった。
オーディションではオブラディオブラダ10回と、10分くらいで振りを作ってもらってGULITTER3回をやってもらった。
過酷ですが、結局本番でやるし、ということで。
そしてどの組もスゲー面白かった。なんだろうこれ、ホントに。

出演してもらったダンサーは、さすが、皆さん本当に素晴らしかった。
今後彼らの作品を見るのがホント楽しみだなぁ。

今回でまた新たに意識できるようになったことも結構あったし、振付家が別にいるダンスの演出とかもやってみたいな。
演劇文脈で作るということの意識も大分変わってきたし。
まぁ、演劇は演劇文脈で作ると思うけど。

いや、どうかな、演劇文脈で作らない演劇を作ろうとか言い出しかねないけど、、、
それじゃ演劇になっちゃうんだよ、とか言いながら、、、

でも物語に奉仕するんじゃなくて、物語が何かに奉仕するというのは面白いんじゃないかな、、、

今更ですが、物語とはいわゆるストーリーということではなく、時間の流れや物事の順番によって場に蓄積や展開などの事象が起きることだと思ってます。連続性と言ってしまっても良いかもしれません。

その辺りは、なんか掘りがいありそうです。


ダンサーが疲れたりなんだりのことは、まぁ今更書かなくても良いかなと。
あれこそ物語とダンスに関係してるかもしれないけど。

ただ疲れが発する情報は、気になるな。
完全なるネガティブ。身体が背負った性(サガ)。
ダンスでは基本的に見せてはいけ無いもの(らしい)ですが、絶対的に身体が持っている性ですから、身体を突き詰めていく時には含まれてもいいんじゃないかなとも思います。
ダンサーは人間であるのか、身体は生きているのか、という問いかもしれません。
そんなこと、ダンスでは既に語り尽くされているのかもしれませんが。

まぁ、単に自分の好みと言ってしまえばそれまでですね。

さて、そろそろ仕事に戻ります。