『シンポジウム』上演によせて(公演企画書より)

大分前に、というか作品を作る前に企画書の為に書いたものですが、あまり人目につかない文章なので、載せておきます。

基本、公演の内容についての説明、なんですが、それ以外(の部分が実は一番比重が大きい)のミッションを背負っている文章なので、これが作品の全てだったり語りたい事のようなものであるわけでもありませんが。。。。
自分読んでも、「へー」って感じではあります。意外とここから大外れもしてないなぁ。



『シンポジウム SYMPOSIUM』上演によせて

東京デスロックの新作となる『シンポジウムSYMPOSIUM』は、2013年1月の東京復帰公演『東京ノート』の上演に向けて、東京公演復帰準備公演として発表した『モラトリアム』『リハビリテーション』『カウンセリング』という一連の作品の続編にあたる作品になります。三連作では、東京というサイズを意識し、地域東京で4年ぶりに活動を再開するにあたっての、関東、東京へのフィールドワークとフィードバックによって構成されていました。これは2009年〜2012年の東京公演を休止していた4年間に、各地域の劇場、アーティストの活動に参画し、個人的にも芸術監督を務める富士見市民文化会館キラリふじみを中心に、全国各地域でのワークショップや市民劇の創作などに携わるなかで自然と身につけてきた作品の考え方の一つです。地域での活動は、その地域を見つめる視座を探す事から始まります。客人であるアーティストの視座、地域に生きる人々の視座。そして芸術作品は世界への新たな視座をもたらすことにその意義があります。『東京ノート』では地域東京への視座を、『シンポジウム』では、青森、横浜、京都、北九州、ソウルから参加するアーティストと共に、地域日本、そして地域アジア、わたしたちの世界への様々な視座をもたらすことを目指します。

作品自体は「シンポジウム」の語源ともなったプラトン著による『饗宴』を下敷きに、各地域のアーティストによる、個人、友人、家族、社会、国内、国外、様々なサイズの問題意識を、『饗宴』と同じく「愛」というキーワードからパフォーマンス化していきます。『饗宴』では、我々はかつて「アンドロギュロス(男女一体)」であり、かつての半身を求めることが「愛」である、と語られます。非同一体であるからこその「愛」。各地でのわたしたちの活動は、あるサイズ、ある視点から捉えると同一でもあり、非同一でもあります。それぞれの抱える問題には“共有/非共有”のグラデーションがあり、それはパフォーマー間だけではなく、観客との間にも生まれる関係です。例えば京都のダンサーとソウルの俳優それぞれの抱える問題とその身体、そして観客、その間にある“共有/非共有”、“同一/非同一性”を、アクチュアルに空間に立ち上げることで、世界への豊かな視座を生む事が出来ればと思っています。もしかしたら、非同一である事、わたしと違う、わたしと関係ない、わたしには共有できないことの方に、「愛」を感じることもできるのではと、今は考えています。

過去の三連作でも、客席を排したり、観客が出身地別に区分けされたり、観客の位置付けも作品と密接な関係にありました。『シンポジウム』でも、何しろ「饗宴」ですから、観客の存在も大きな作品の構成要素になるでしょう。特別何かに参加してもらうという事にはならないと思いますが、観客の存在、世界を客人として観る存在と作品の豊かな関係を築ければと思っています。

わたしたちが、わたしたちの世界を生きていくための作品づくりを、これからも続けていこうと思っています。

東京デスロック主宰 多田淳之介